“ウイスキーの蒸留所”というと、自然が身近な環境を勝手にイメージしていたのですが、「新潟亀田蒸溜所」は工業団地内にあるのが意外でした。
堂田:
「新潟亀田蒸溜所」は、「はんこの大谷」として知られる「株式会社大谷」の敷地一角にあります。蒸留所を立ち上げたのは2019年ですね。蒸留所の代表者である妻の尚子は、株式会社大谷の社長を務めていて、私ももともとは大谷の社員なんです。ですので「新潟亀田蒸溜所」は大谷の事業の一つという大きな括りになります。
そもそも、堂田さんとウイスキーの出会いは?
堂田:
私は北海道出身で大学も道内でした。お酒好きだったゼミの教授が、ゼミ生を「ニッカウヰスキー 余市蒸溜所」に連れて行ってくれたことがあったんです。そこには蒸留機も含めて大きな機械や樽が山積みになっていて、非常にロマンを感じました。余市の蒸留所近辺は本当に景色の良いところで、自然豊かな場所でこういったウイスキーが作られている、その職人の世界に憧れましたね。こんな場所で働きたいと思いました。ただ、私が大学を卒業する頃は、バブル崩壊の翌年。就職氷河期といわれている中で、同時に1990年代の後半というのは、ウイスキーのどん底時代といわれていて、ウイスキーが全く売れなかった時代でした。だからウイスキー関連のお仕事って何もなかったんです。それもあって、卒業後はウイスキーとは関係ない仕事に就いていました。
大谷に入社したきっかけはどういった経緯で。
堂田:
大学卒業後は写真専門商社や電設資材企業で働いていたのですが、30歳頃に病気で入院する機会があったんです。こういう世界があるのかと、医療業界に興味を持ったのはその時ですね。でも、今さら医師にも薬剤師にもなれないと考えた時に、製薬会社に営業の仕事(MR)があることを知って転職したんです。新潟に赴任した時に出会ったのが、妻の尚子でした。上司に連れて行ってもらった大衆割烹に、妻は義母と来ていたのですが「新潟の女性は日本酒をよく飲むんだなぁ」と感じました(笑)。その出会いを機に尚子と結婚。しばらくは大谷には入らず、変わらずMRの仕事をしていたのですが、妻が会社を継ぐタイミングで大谷に入社しました。
どういったお仕事をされていたのでしょうか。
堂田:
前職の経験を生かして、まずは2018年に埼玉県内の訪問看護ステーションを立ち上げました。埼玉県は医療過疎の地域で、人口あたりのドクターの数というのが全国最下位という背景もあって、ニーズがあった埼玉に開設しました。ウイスキーの蒸留所を立ち上げるという話もちょうどその頃ですかね。その頃の夫婦の晩酌といえば、竹鶴の17年もの。毎日飲んでも飽きないし、ウイスキーはやはり味、香りが他のお酒と違うと感じていました。「そんなに好きならつくってみたら?」という妻の一言から、ウイスキーづくりが始まったんです。