2024.07.22
お知らせ
1767年~1768年(明和4年~明和5年)にかけ、冷害などの不況に重ねて藩からの重税に苦しんでいた新潟湊の町人たちが藩への異議申し立てを「暴力を認めず話し合い」で進め2ヶ月間、町の政治を自分たちで取り仕切ったと言われる偉人たちの市民運動を明和義人と総称しております。力で解決せず、対話で町の政治を変える。明和の時代、町人が奉行所や藩に意見するなど考えられないことでした。その様子は閉塞感漂う現代においても学びの模範となるものです。その明和騒動の義人として伝えられる「涌井藤四郎」らの顕彰と慰霊を主旨として、新潟市中央区の古町通1番町から6番町までを会場に例年8月下旬に開催されるお祭りです。
江戸時代の半ばである明和4(1767)年、財政悪化に苦しむ長岡藩は、湊を運営する新潟町民に多額の御用金を納めるように命じました。当時、阿賀野川の改修によって船の出入りが減り、不況に苦しんでいた新潟町民は、御用金の半金を納め、残り半金は翌年に支払うことで許しを得ました。
しかし、翌年になっても景気は回復せず、残り半金の支払いが難しくなった新潟町民は、涌井藤四郎らを中心に会合を開き、御用金の支払いを先に延ばしてもらおうとしたのですが、長岡藩はこの集まりをお上に対する反逆的な行動として、藤四郎らを捕まえ、牢に閉じ込めたのです。
この動きに反発した新潟町民は、明和5年9月26日、大勢の人たちが集まって、米を買い占めて町民を苦しめていた豪商や町の有力者の家などを次々と打ち壊しました。奉行所は、この騒ぎを鎮めようとしましたが、結局失敗に終り、やむなく藤四郎らを解放し、その藤四郎たちの手によって打ち壊し騒ぎは鎮められたのです。
騒ぎを収めた藤四郎たちは、新潟湊を自分たちの手で立て直そうと、藤四郎を新潟町民の代表とする体制をつくり、秩序の回復に努めました。この町民による自治は、その後2カ月に渡って行われ、新潟湊は徐々に治安と経済の落ち着きを取り戻していったのです。
しかし、同年11月末になり、長岡藩は藤四郎たちを長岡に呼び出し、吟味の末、藤四郎と、行動を共にした岩船屋佐次兵衛らを打ち首に処したのです。
新潟湊の人々は、この出来事を誇るべき史実として口伝えに語り継ぎ、藤四郎たちを明和の義人(ぎじん)として、ひそかに祀りました。
1870年フランスが普仏戦争(プロイセン・フランス戦争)に敗れた後、
反帝政運動を進めるパリの民衆と国民軍が、ティエールらの国防政府に反抗して樹立した革命的自治政権。
フランス語ではCommune da Parisという。1871年3月18日から5月28日まで72日間続いた。
政府がベルサイユにのがれたあと、パリの各区から選ばれた労働者・小市民からなる代議員がコミューンを構成し各目的行動の中核となったが、政府軍との激しい戦闘ののち崩壊。民衆の自発的蜂起と新しい連帯の原理は現代革命原型として重視され、マルクスはこれを最初の労働者政権として高く評価した。